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2019年4月6日土曜日

フレンズという生き様

虚木零児です。

さて。始まる前から不穏な空気を漂わせていたけものフレンズ2が最終回を迎えました。思わせぶりな発言をチラ見せしながら引っ張ったのが、またヒトと一緒に暮らしたいという細やかな願いを抱いたイエイヌのフレンズだったり、正体不明で凶暴なビーストが最後の最後まで正体不明で凶暴なままだったりと、非常に斬新な演出を意欲的に取り入れた冒険作でしたね。特にラストシーンでかつてパークが健在だったであろう――ミライさんがパークにいた――ころに描かれた、カラカル・サーバル・キュルル三人の絵が出てきたのは本当に意味がわかりませんでした。キュルルは一体何物なんだ。

オオセンザンコウとオオアルマジロは大変可愛かったです。



正直、歯に物が挟まったような言い方しかできないんですよ。他の話題ならいざ知らず、けものフレンズという話題においてはこういう言い方しかできない。だって、他人の失敗を目にしても「フレンズによって得意なことは違うから」って気にしない顔で慰めてみせたサーバルたちに、憤怒に狂った姿を見せたくないじゃないですか。確かにけものフレンズ2作りはうまくなかったかも知れないけど、他の場所では華々しい活躍をするであろう人に対して「クズ」だの「クソ」だのとは言い難い。むしろ、すごいと褒めるべきなんでしょうね。

それはそれで個人の感情が邪魔してできませんが。

まあそれでも、けものフレンズ2がけものフレンズ2なりにシーズンを駆け抜けた結果、「フレンズとは?」という部分について、改めて見えてきた部分もあると思うんですよ。一期ではヒトがテーマだったとするなら、二期ではフレンズとは何かがテーマだったんじゃないかと思えるぐらいには。
たとえば、自身の姿を模したセルリアンに自身の仲間の影を重ねたリョコウバトはキュルルによってその考え方を真っ向から否定されました。他にも、落下する瓦礫の向こうに消えていくビーストのことを誰も――それこそ、サーバルでさえも心配していないシーンもありました。これらは一見すると冷淡に感じるかも知れません。事実、「『のけものはいない』んじゃなかったのかよ」と腐している人がいました。姿の似たセルリアンや、ビーストたちが"のけもの"にされているように感じたのでしょう。
しかしながら、私はこの腐し方に違和感を覚えます。私の中でフレンズとは姿形や出生ではありません。在り方、もしくは生き様です。たとえ外観を似せようとも人語を話さず、相手に危害を加えようとするセルリアンはフレンズではないし、出自がフレンズと同じであっても友好を深めようとはせず、相手を傷つけるビーストもまたフレンズではありません。相手を思いやり、助け合い、認め合うからフレンズなのです。誰がなんと言おうと、少なくとも私の中ではそうなんです。

振り返ってみると、アニメ一期におけるセルリアンはフレンズたちとは全く異質な成り立ちと目的をもって行動する外敵でした。奴らはフレンズをただの動物にする――つまり、アニマルガールとしての死を与える――異能を有した装置として振る舞い、巨大な個体にいたっては最終的に海に沈められました。前述の通り、「のけものはいない」はずの世界にあって、唯一排除されることを運命づけられた存在でした。

しかしながらそんなセルリアンも、アニメの更に前に存在していたアプリにおいてはトモダチになっていたと聞きます。人語を操り、人格を有したセーバルとアニメに登場したいっそ無機質なセルリアンとはまるで異質な存在に思えますが、フレンズたちの敵であったことに違いはありません。たとえ出生からして異なり、場合によっては相手を害することのある存在であっても、友好を深めたいという意識があればフレンズなのです。

であるならば、2に登場したビースト――出自こそフレンズたちと類似と推察されるものの、その行動に友好的な側面を見せない存在――や、フレンズの姿を模した自我なきセルリアンが登場するのも必然でしょう。姿形、身体能力こそ似ているものの対話能力は持ち合わせず、結局は捕食(?)しようと襲いかかってくるフレンズ姿のセルリアンたち。最後の最後、瓦礫の向こう側で立ち尽くす、その直前まで禍々しいオーラを放ちながらフレンズやセルリアンの区別なく襲いかかっていたビースト。そんな彼女たちを"トモダチ"とみなせるかは各自、一考してみても面白いと思います。

そして、己が身を顧みてみましょう。
我々はサーバルたちと一緒に楽しく笑い合える存在でしょうか。
それとも……