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2019年10月27日日曜日

劇場版・最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。を擁護する

虚木零児です。

GWに実写劇場版最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。を視聴する機会がありました。ありましたも何も、道連れを作って鑑賞会を開いただけなんで、本当のことを言えばわざわざ見ました。
個人的には妹ちょの実写化としては酷いものと言わざるを得ない出来であり、面白かったか面白くなかったかで言えば面白くはありませんでした。評価しろと言われれば容赦なく低評価をつけるし、てんちむの乳首が見えたからと言ってそれは揺るぎません(Amazonのレビュアーはそうでもないみたいですが)。

まあ、それでも見どころがなかったかと言えば、そんなことはないので、今回はそのあたりを記事として残すことにしようと思います。
当たり前の話ではございますが、原作漫画、アニメ、劇場版のすべての妹ちょのネタバレ満載の記事となりますので、その点だけはご了承ください。

●3つの作品の共通点

基本的なストーリーラインは流石に同一です。美月が実母の再婚によって義兄の夕哉と出会い、トラブルもあって良好とは言い難い仲に。その少し後には、大半の記憶を失っているものの義兄の夕哉に好意を寄せる幽霊の日和が登場し、二人と一人の共同生活が始まっていきます。
夕哉とのラブラブ経験を重ね、天の扉へと登る階段を積み上げ、成仏することを目的とする日和。気まずさと警戒心と観念から夕哉とのラブラブ経験に抵抗感を示す美月。そして、その2つの相反する行動に翻弄される夕哉の三人は周囲の人間を巻き込みながら、少しずつ関係性を発展させていくのでした。

●漫画とアニメの違い

大きな違いは天の扉の設定です。漫画・アニメ共に天の扉への到達が着地点であることは同一ですが、原作を消費しきらずに決着する関係上、アニメでは天の扉到達後に、次のフロアが存在して、もうしばらく共同生活が続くというラストになっています。一応の決着をつけつつ、二期・三期と続いたときのための余地を残したのでしょう。漫画では天の扉に到達するのは本当に最後の最後ですので、2Fは出てきません。

それ以外にも細かいポイントが変更されており、ある理由からパンツを履き忘れた美月に毛糸のパンツを届ける役目や、日和に身体を貸して霊体化している美月に「あまり長く離れない方がいい」と警告する役目が漫画の雪那から根子に変更されています。
雪那は霊感が強い為に日和や美月の霊体を視認できるだけであり、二人の関係をしっかり把握している訳ではない一方、根子は二人の関係、置かれている状況を把握している唯一と言っていい人物であり、美月がパンツを履き忘れた理由――日和との協力関係に陥って以来、貞操帯が装着されている――や、身体の主導権を失う危険性などを認識しています。ヘルプ役にどちらが適任かと言えば、根子の方ではあります。
実際のところ、漫画版では見透かしたようなことを言っていた雪那は中盤以降、美月日和の問題からは一歩引いた立ち位置に移りますので、連載漫画特有のライブ感を後追いのアニメが辻褄合わせで改変したのかも知れませんね。

他にも母親の渡航タイミングが父親とズレたことで、歩道橋から落下した美月との間に会話が生まれ、母娘の間で微妙なすれ違いが起きていることが描写されたりと、大筋のストーリーラインはそのままに、細かなブラッシュアップが施されています。

僕がこの作品に触れたのはアニメが一番スタートなこともあり、原作漫画を読んだ今にいたってもなお、評価を下げるつもりはありません。まあ、放映時間にしては過激すぎる描写が問題になったという点はちょっとアレですが。個人的にはいいんじゃないかとも思うんですけどね。自慰ぐらい。

●漫画と実写映画の違い

アニメと違い、開始時点のストーリーラインが似ているだけで、上に乗っかっている話は大きく異なります。

最大の違いは日和の正体であり、アニメ・漫画共に日和は別個の母体を持った別の人格ですが、実写映画における日和は美月の中から生じた人格となっています。

そのため、美月の両親の設定は大きく変更されており、母親は夕哉の父と再婚するまでにいろいろな男性と付き合っては別れを繰り返していますが、漫画版では美月の父親からして暴力・博打・女好きのダメ男として描写されているのに対し、映画では事故で亡くなっていることが描写されています。
おかげで美月から見た母親の評価も漫画版が「誰かいないとダメな人ですぐ寂しくなっちゃうから、しょっちゅう変な男と付き合っては別れちゃって」と精神面の脆さとそこに付け込まれてきたような表現なのに対し、実写映画版では「男をとっかえひっかえだからさ」という幾分突き放した言動になっています。まあ、実際、後々の描写を見ると、まだ幼い美月を放って男性に媚びを売るなどしていた様子であり、嫌悪感を抱かれるのは仕方のないことなのかも知れません。

結果として、実写映画における美月は対人関係、特に男性や家族といったものに対しては非常にドライな価値観を有しており、夕哉のことも「兄妹ごっこ」と切って捨てます。夕哉に対する若干距離感のある対応の理由も、漫画・アニメでは自分自身への自信のなさからなのに対し、実写映画では関係に期待していないから。なので、猛烈なアプローチが目立つものの、それ以上に人当たりのいい日和と夕哉が和気藹々と買い物をしているの見ながら、普段のつっけんどんな自分を振り返って自己嫌悪するシーンなどは実写映画には出てきません。

その一方、日和は夕哉の心を繋ぎ止める為に、性的なアプローチも含め、いかなる手段も辞さない人格となっています。性的なアプローチが目立つ点は漫画・アニメ・実写のすべてで共通ですが、実写版においては母親の姿を見て歪んだ愛の形を学んだ結果、愛を得るために身体を利用する存在として描写されます。漫画・アニメの日和がいざ事に及ぼうとした瞬間に照れから逃げ出してしまったのと反対に、実写版の日和は性急にことに至ろうとしている節があります。

●再び3つの作品の共通点と実写版の良さ

そして、いずれの作品でも夕哉からは拒否されます。
夕哉にとって日和は、少し無愛想で気難しい美月がごくたまに見せる親しげな一面でしかなく、一人の存在として認識されていません。美月が無理をしている、あるいは、ストレスから生じた別人格として処理しているので、あれほど気難しくて会話もつっけんどんな美月が身体を重ねてくるのにはなにかしらの裏があるはずと疑っています。
自分に取り入るために無理をしているんじゃないか。そう感じた夕哉は自分なりの言葉でそういうことを求めているんじゃない。と口にします。そんなことをしなくても家族にはなれるんだよ。と。

この言葉は夕哉に信頼を寄せながらも、初対面時からの関係性を引きずっていてイマイチ踏み込めなかった美月にとっては救いに近い言葉だったでしょう。美月の態度は多くの人が思い浮かべる理想的な家族像における妹の振る舞いではないかも知れない。それでも、だとしても夕哉は家族になれると認めてくれている。これは一つの肯定でしょう。

それでいて、日和に対しては非常に冷たい否定になります。自分の拠り所、根源が別にある漫画・アニメの日和はまだマシです。美月が日和のように振る舞うことの否定であって、日和が日和として振る舞うことが否定された訳ではないと考えることができます。問題は美月と根源を同じくする実写版の日和です。男性との性的な関係でしか維持することを担う日和にとって「そんな必要はない」は存在の否定に他なりません。映画のクライマックス、山小屋の奥で一線を越えようとするその刹那、夕哉から突き放された日和はその姿を消してしまいます。その直前、美月と退治した日和は自分自身を母親から愛されない寂しさから生まれた存在であると称し、男性からの寵愛を受ける為に母親を真似る存在であると名乗り、自分こそが幸せになれると言い放ち、身体の主導権を自ら奪い取ったにも関わらず。です。

もう、この僅かな時間に実写劇場版の存在意義が含まれていると言っても過言ではありません。自らが消え去るとなった時、美月は泣きながら日和の幸せを願います。自らが消えることは辛いけども、日和が幸せになれるならそれでいいという覚悟。そうして送り出された日和も、自身の追い求める理想像が夕哉からは認められていないことを悟り、美月に対する愛情を感じ取た瞬間に、美月へと入れ替わって自ら姿を消します。やっぱり、自分と他人を比較して、他人を優先できるって尊いことだと思うんですよね。それを何気なくこなしてしまう、このシーンは流石に胸に来る。
こらそこ、ただのトロッコ問題とかいうのやめろ。

同時に夕哉の言うことも尤もだよな。とは思う訳です。確かに主体としてセッ……したい瞬間はあるし、セッ……の相手がほしい瞬間もある。かも知れない。でも、その欲求を感じ取った女性が本当は望んでいないセッ……を、求めているかのようにアプローチされても単純に喜んでいいのかなっていう。
けど、逆に劇場版の日和みたいに関係性を深めるための手段としてのセッ……を捉えてる人からお誘いを拒絶するってことは、関係性を深めることの拒否につながるのかもと思うとなかなかバランスが難しいところではあります。
お互いに忌憚なくものを言い合える関係というのが構築できていれば、こんな悩みもなくなるのでしょうか。

いやまあ、こういうこと考えても相手いないんですけどね。アハハ。